国立公文書館 企画展「書物を愛する人々」(4) 蔵書家列伝

公文書館・図書館
01 /06 2017
蔵書家列伝
次に4人まとめて紹介します

太田道瀧(1432-1486)
関東管領上杉氏の一族・上杉定正の重臣として、室町時代に活躍した武将です。幼名は鶴千代、元服して資長(持資とする説あり)と名のりまし た。康正元年(1155) に家督を継ぐと、江戸に城を築き、関東平野で行われた30以上もの合戦に参加し、数多くの戦功を挙げました。 武将としてのイメージが強い道瀧ですが、幼少の頃より鎌倉の禅寺で学問を修めた、学者としての一面を持ち合わせています。文明18 年(1486)には、隅田川の船上や父親の住む越生(現在の埼玉県越生町)で詩歌会を 催しており、このような風流な一面が「山吹の里」の逸話を生んだと考えられます。
 なお、剃髪して「道漕」と称するようになったのは、文明10 年(1478) 頃といわれています。


宋学士文粋 314-0021
明時代(1368~1644)の政治家であり文人でもあった宋濂(1310-1381)の詩文集です。 「学士」とは官職名で、宋濂が「翰林学士(詔勅などの起草を担当する官職)となったことにもどづく名称です。
 洪武10年(1377)に刊行された物で、全3冊です。なお、「岩雪集」の蔵書印より、太田道灌の旧蔵書であることがわかります。また、表紙には「新宮城所蔵」の蔵書印があります。この印は既習新宮城主・水野忠央の蔵書印です。水野忠央(1814-1865)は、国学や有職故実に精通し、蔵書家としても有名な人物です。


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常山紀談 170-0050
 江戸時代中期に成立した逸話周で、戦国武将の逸話470条を収めています。著者は岡山藩に仕えた儒学者・湯浅常山(1708-1781)です。
 画像は、太田左衛門大夫持資(太田道灌)の「山吹の里」の逸話の部分です。明和4年(1767)の序文がある刊本で、全30冊です。
「山吹の里」の逸話
 太田道灌が歌道に励むきっかけとなったといわれる物語です。
 鷹狩りの途中、雨に降られた道灌は、雨具の「蓑」を借りるため、近くの小屋を訪ねます。すると若い娘が出てきて、何も言わず「山吹の花」を差し出しました。雨具を借りることができず、怒って屋敷に戻った道濯でしたが、人に「その娘は『七重八重花は咲けども山吹の実あひとつだになきぞ悲しき』の歌を用い、『実の』を『蓑』に掛けて『一つの蓑さえないことは悲しい(=我が家に蓑はございません)』と述べたのです」と説明されます。道漕は、 娘の学問に驚くとともに、自身が歌道に暗いことを恥じ、その後は、歌道の勉強に励んだといわれています。


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狩谷棭斎(1775 -1835)
江戸時代後期の有名な書誌学者・蔵書家です。下谷池之端の本屋の子に生まれ、後に米問屋津軽屋の婿養子となり、弘前藩の御蔵元(藩の年貢米や専売品の流通を取り仕切る商人)を勤めるかたわら、日本や中国で出版された書物の収集と研究に努め、数多くの業績を残しました。
 名は望之、字は卿雲.通称は三右衛門、雅号は棭斎(棭は「ねむの木」のこと)・求古楼といいます。棭斎が、友人の蔵書家たちと開催した「求古楼展観」(第1回は文化12年(1815)5月7日に開催)は、日本における最初の本格的な書誌学研究会と言われています。



箋註唐賢三体詩法 363-0102
 漢詩を作るための教科書です。唐時代の詩人が詠んだ数多くの漢詩の中から「七言絶句(一句七字の四句からなる詩)・「七言律詩(一句七字の八句からなる詩)」・「五言絶句(一句五字の四句からなる詩)」の3つの体裁の詩を集めたもので、詩人167人・ 詩494首を収録しています。
 狩谷棭斎の旧蔵書で、後に昌平坂学問所に収蔵きれたものです。明時代(1368-1644) に刊行されたもので全3冊です。


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孝経 275-0183
孝経は、「孝道(先祖や父母によく仕えること)」について述べたもので、 孔子(前552?一前479)がその弟子に説いたものといわれています。資料は、狩谷棭斎が所蔵していた北宋時代(960-'1127)刊行の『孝経』(現在は宮内庁書陵部に収蔵)を忠実に再現した復刻本で、文化9年(112) に刊行されたものです。棭斎は、自身が所有する貴重な書物を模刻して出版することで、広く学者の利用に供しました。全1冊です。

孝経 8ページ



多紀元堅 (1795-1857)
 多紀元堅は、幕府の医官を勤めた多紀氏(丹波氏ともいう)の一族で、本家から独立して日本橋に別家を興し、「医学館(江戸後期に幕府によって設立された医学学校)」の講師や「奥医師(将軍とその家族を診療する医師)」 などを動めるかたわら、医学書の収集と研究を行い、書誌学上に大きな業績を残しました。
 字は亦柔、通称は安叔、雅号は 茝庭といいます。狩谷棭斎が開催した「求古楼展観」にも参加し、数多くの医学書を出品しています。我が国に現存する漢籍の古写本や優れた版本をすべて調査するという棭斎の意志を継ぎ、渋江抽斎らが編纂した『経籍訪古志』 の成立に深く関わりました。


鶏峰普済方 305-0034
 漢方薬の処方を記載Lた医学書です。
 著者は、南宋時代(1127~1279)の医者・張鋭(生没年未詳)で、「鶏峰」 は張鋭が住んでいた四川省の地名です。
 清の道光8年(1828)に刊行されたもので、全10冊です。中国の商船によって日本に輸入されました。
天保9年(1838)の多紀(丹波) 元堅の跋文には、本書を入手した喜びから した喜びから、文章を作成して巻末に附した旨が記されています。
名前の下に捺されている小さな印の文字は「丹波/元堅」と「茝/庭」で. 落款印と蔵書印を兼ねたものです。


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続易簡方脈論 303-0092
 漢方薬の処方と経脈の変化から病気を診断する方法を記した医学書です。
 著者は、南宋時代(1127~1279)の医者・王暐(生没年未詳)です。
  医者・書誌学者の小島春沂(生没年未詳・多紀元堅の弟子) が京都で入手したものを、元堅が書写させて「医学館」に収めさせたものです。「嘉永癸丑」は、嘉永6年(1853)のことで、 元堅の署名の横に捺された印の文字は「丹波/元堅」と「茝/庭」です。全1冊。


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渋江抽斎(1805-1858)
 江戸時代後期の弘前藩の藩医・書誌学者です。
 名は全善、字は子良、通称は道純、雅号は抽斎といい、藩医として弘前藩に仕えるかたわら、狩谷棭斎・多紀元堅らに書誌学を学びました。そして、我が国に伝わる多くの漢籍や古写本を収録し、江戸期の書誌学における最も優れた業績といわれる『経籍訪古志』を森立之(1807-1885、書誌学者)らと編纂したことで知られています。
 「弘前医官渋/江氏蔵書記」は、渋江抽斎の蔵書印です。森鴎外は、この蔵書印が捺された書物を購入したことから渋江抽斎に興味を持ち、小説『渋江抽斎』を執筆しました。



頓医抄 特059-0001
 鎌倉時代の医者・梶原性全(1266-1337)が著した医学書です。
 中国の医学書を基としながら、性全の自説を加えたものです。同署は「和文(仮名まじり文)」で書かれ、鎌倉時代を代表する医学書といわれています。
 室町時代(1336~1573)の末期に書写されたもので、不足部分は江戸時代初期の写本を加えて補っています。
まず、市野迷庵(江戸時代後期の儒学者、1765-1826)が入手し、狩谷棭斎・渋江抽斎の所蔵を経て、明治19年(1886)に明治政府が購入しました。全25冊です。

多紀元堅の跋文
 『頓医抄』第25冊の末尾には,多紀元堅の跋文があります。そこには「医学書の収集に熱心ではない儒学者・市野迷庵のもとに、 なぜこのような素晴らしい医学書があったのか」と書物伝来の不思議さを述べています。また「頓医抄」と記した「題簽(だいせん・題名を記した紙片)」は、狩谷棭斎の直筆であると述べています。なお、「庚戌」とは嘉永3年(1850)にあたります。


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太平武鑑 151-0290
 元禄8年(1695) に刊行された武鑑で、大名などに関する情報が、小さな紙面に細かい字で記されています。
 資料には、紅葉山文庫の旧蔵書に捺された「秘閣図/書之章」印があり、全3冊です。

渋江抽斎と武鑑
 渋江抽斎は、武鑑を数多く所蔵していました。武鑑とは、江戸時代に民間の本屋が刊行した大名や幕府の役人の名前・系図・家紋などの情報を収録する書物です。抽斎が蔵書印を捺し、大切に保管していた武鑑は少しずつ流出し、その武鑑を森鴎外が度々購入したのです。


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