国立公文書館 企画展「漂流ものがたり」(6) 大黒屋光太夫の漂流記録

公文書館・図書館
03 /06 2017

大黒屋光太夫の漂流記録①
 天明2年(1782) 12月、伊勢国白子村(現在の三重県鈴鹿市白子) の百姓彦兵衛の持船・神昌丸(船頭大黒屋光太夫ら乗組員17 名) は、紀州藩の米などを積んで、江戸へ向かいました。その途中、駿河沖で暴風に遭い、漂流してしまいます。光太夫らは船の安全のため、食糧である米以外の積荷を捨て、帆柱を切りました。しかし舵を失った船は太平洋へと流されていきました。
 天明3年7月20日、およそ半年にわたる漂流の後、彼らはアリューシャン列島の西端に近いアムチトカ島に漂着しました。そこで現地住民(アレウト族)とロシア人狩猟団の世話を受けながら、生活 していくことになりました。
 天明5年7月、沖合にロシア人狩猟団の迎えの船が見えました。 ところがこの船は接岸に失敗し、出迎えの人々の前で大破してしま いました。 在島ロシア人や光太夫ら漂流民は必死の救助にあたり、 乗組員24名及び積荷を無事に陸揚げすることに成功、迎えの船の残骸も引き揚げ、船板や金具などの回収に努めました。
 その後、ロシア人たちは話し合いの結果、自力での大船新造を決定します。 拾い集めておいた神昌丸の船材も使うなどし、光太夫らとロシア人は協力して船を建造しました。 天明7年の船の完成を受け、同年7月18 日、ロシア人25 名、光太夫ら9 名、そして光太夫のネコ1匹は、アムチトカ島を出港しました。4年1 ケ月に及ぶ孤島生活でした。


北槎聞略  185-0579 重要文化財

北槎聞略 巻一 表紙を展示
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北槎聞略 巻二 9/53を展示
 水手幾八ハ、腹痛下利してなやみけるが、七月十五日の夜亥の刻ばかりに 死す、合船の者とも難苦に身体を よはりつかれ、そのうへ誰云合するとハなけれとも、神仏へ祈願のため日々に三度垢離をとりける故、精力も衰へたるにや、いつれも雀目になりて、夜分ハ物のあいろもみえさる故、夜明を待て死骸に沐浴させ、髪を剃、桶に入、白木綿にてつめ、蓋の上に勢州白子大黒屋光太夫船水手幾八と書記し、
 漂流からおよそ半年。神昌丸で最初の死者が出ました。南若松村(現在の三重県鈴鹿市)の水主カコ(「水手」) 幾八でした。彼は腹痛と下痢に悩まされており、7 月15 日の夜、息を引き取りました。乗組員たちは、神仏への祈願で、毎日3回も垢離コリ(神仏に祈願する時に、冷水を浴びること)をし、さらに体も衰えていたため「雀目」(鳥目)になってしまい、夜に目が見えなくなっていました。仕方なく夜が明けてから、幾八の遺骸を沐浴させ、髪を剃り桶に入れ、蓋に「勢州白子大黒屋光太夫船水手幾八」と書き、海に沈めたとあります。

北槎聞略 185-0217
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幾八が亡くなった頃から、乗組員たちの様子も変わってきました。退屈しのぎに博打をしても、「贏カチたるも輸マケたるも船中まての事」であり、勝っても負けても何とも思わなくなり、ただ退屈を増すだけでした。また最初はお互いを慰め合い、助け合っていましたが、徐々に自分勝手な行動が目立ち、そのうち口論やつかみ合いも始まり「船頭親父」(船中の賄いを担当した者)の言うことも聞かなくなっていったようです。

北槎聞略 巻二 51/43を展示(パネル)
 カムチャッカに到着した光太夫らは、天明8年(1788)初冬、深刻な飢謹に見舞われました。同地の食糧は船舶輸送に頼っていたのですが、悪天候のせいで入港する船が途絶えてしまったのです。
 この飢饉により与える与惣松・勘太郎・藤蔵が病死しました。光太夫は日本では見られない病と述べています。桂川甫周は、「チンカ」(壊血病) という病気であると推測しています。

北槎聞略 巻三 6/52を展示
 庄蔵は元々「湿毒」(梅毒か)により足が悪かったようですが、寒さによりさらに悪化し、イルクーツクで、片足の膝より下を切断する手術を受けることになりました。庄蔵は片足を無くした状態ではとても帰国できないと言い、ロシア正教の洗礼を受け帰化し、ロシアへ留まる決断を下します。
 一方光太夫らが出していた帰国願に対し、総督府から、帰国は思い留まり、この国で仕官せよとの通知が到来します。しかし帰国を諦めきれない光太夫らは再び帰国願を出しますが、それに対しても、仕官の気が なければ商人になるよう薦められ、また仕官すればそれなりの昇造も見込めるとの通知で、帰国は認められませんでした。


大黒屋光太夫の漂流記録②
 天明7年(1787) 8月2 日、光太夫一行はロシアのカムチャッカに到着します。この地で越冬し、10ケ月ばかりを過ごします。光太夫はカム チャッカ長官オルレヤンコフ邸に泊まり、他の8名はその秘書ドブレニンの家に世話になりました。
 この地でさらに3名の漂流民が死去しました。これにより生存漂流民 は6名となりました。
  翌天明8年6月15 日になり、光太夫ら6名はロシア人15名とともに、 イルクーツクに向かうことになります。カムチャッカ半島を横断し、同 年7月1日にオホーツク海沿岸のチギリへ。8月30日オホーツクへ着港。 そして寛政元年(1789) 2月9 日、イルクーツクへ到着します。
 到着後、光太夫ら6名はイルクーツク総督府へ帰国願を提出します。 この帰国願は、彼らをイルクーツクまで護送したホッケイチ大尉や、大尉を通じて知り合いとなったキリル=ラクスマン(後に光太夫らを日本へ護送したアダム=ラクスマンの父親)に書いてもらったといいます。 総督府からの返答は8月に届きました。それは帰国を思い留まるのであれば、ロシアで役人に取り立てるという内容でした。ロシア側の漂流民引き留めは、日本語通訳を欲していたこと、また日本との通商を見据 え、日本市場・商品に詳しい人物が必要だった等の理由からでした。
 光太夫らはこの仕官を断り、再度帰国願を出しますが、その願は受け入れられませんでした。 ロシアから支給されていた扶助費用も打ち切られ、非常に苦しい生活の中、イルクーツクで2年を過ごし、寛政3年(1791) の正月を迎えました。



ノセカ 中刀
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大黒屋光太夫の漂流記録③
 帰国願が認められない中、6名の漂流民のうち庄蔵と新蔵の2名が、 ロシアへ帰化・ロシア正教の洗礼を受けることを決意します。
 光太夫は寛政3年(1791) 1 月、キリル=ラクスマンに伴われ、首都ペテルブルクへ赴き、政府要人へ帰国を訴え出ることになりました。しかしこの直前、九右衛門が病死します。これで帰国を希望する漂流民は 3名となりました。
 ペテルブルク到着からしばらくして、ロシア皇帝の離宮があるツァールスコエ・セローにキリルと共に向かいます。しばらくして、キリルとともに参内するよう達があり、光太夫はエカテリーナ二世に謁見しました。ときに寛政3年5 月28 日(一説には6 月28 日)のことでした。光太夫は女帝からの種々の質間に答え、帰国願を言上しました。
 10 月20 日、光太夫は再び宮中に召され、エカテリーナ二世から直接煙草入れを賜りました。さらに金牌と懐中時計、他の漂流民である小市及び磯吉へは銀牌など餞別の品々、ロシア在留の費用などが支給されま した。この時すでに女帝は彼らを日本へ送還、さらに日本へ使節を送る ようイルクーツク総督へ勅命を下していました。光太夫らの願いはようやく聞き入れられたのです。
 寛政4 年5 月20 日、キリルとともにイルクーツクを出発、8 月にオホーツクへ到着しました。そして9月13 日、キリルの子息・アダム=ラクスマンを遣日使節としてエカテリーナ号で日本へ向けて出港しまし た。10 月9 日(陰暦で9 月5 日)、根室に到着しました。およそ10年に も及ぶ漂流でした。しかし残念なことに根室到着後、小市が死去し、日本生還を果たしたのは、光太夫と磯吉の2 名のみでした。



北槎聞略 185-0241
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光太夫は女帝エカテリーナ二世と謁見した際、女帝の右手甲に、3回 唇を軽くふれ、拝礼します。女帝は光太夫の帰国願を見て「ベンヤシコ」 (ベドニャーシカ)と言い、その後に「是ハ憐れむべしという語なり」 という説明が付してあります。女帝が、光太夫らの境遇を嘆いたことがわかります。

大黒屋光太夫の漂流記録④
 寛政5 年(1793) 9 月、第11代将軍徳川家斉の上覧のもと、吹上御庭で光太夫と磯吉への取り調べが行われました。蘭学者で幕府奥医師の桂川甫周が命を受け、光太夫らに彼らの体験や見聞、漂流から送還までの始末、ロシアの政治・経済・社会・言語・物産等多岐にわたって質問を 行いました。甫周がこの尋問役に命じられたのは、彼が以前ロシアについてのオランダ書を訳し「魯西亜志」を記したことも大きな理由と考え られます。
  展示資料「北槎聞略」は、光太夫らからの聞き取りを、甫周が漂流民 の送還、ロシアの政治・経済・社会などに分類し記録したものです。本 書は将軍への献上本で、全12冊、地図10枚、附図2軸で構成されてい ます。平成5年(1993)、重要文化財に指定されました。



ロシアで使用されていた金銀銅貨の図 45/56を展示
光太夫らから聞き取りしたロシア言語の一覧 13/50を展示

魯斉亜国都城図」、 光太夫が持ち帰ったペテルブルクの平面図を模写したもの。

欧羅巴全図」、光太夫が持ち帰った欧羅巴(ヨーロッパ)の地図を模写したもの。
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