国立公文書館 企画展「漂流ものがたり」(4) 漂着・漂流民の扱いと送還

公文書館・図書館
03 /02 2017
Ⅲ漂着・漂流民の扱いと送還
幕府による漂着船処遇

異国船への対処
 18 世紀後半に入ると、日本近海に出没する異国船の数が非常に多くな りました。そのため幕府は寛政3 年(1791) 9 月2 日、新たに異国船の取扱いに関する法令を発布します。
 その内容は、異国船が漂着していた場合、適切な処置を行い、船具等 は取り上げておき、長崎へ送るよう命じたものでした。一方、こちらの指示に従わない異国船の場合は、船は打ち砕き、人は切り捨てるか、召 し捕らえるなどするようにも指示しています。
 後に幕府は、文化元年(1804) 9 月にロシアの外交官レザノフが漂流民送還と通商を求め長崎に来訪したことなどを受け、同3 年正月26 日 に新たに法令を発布し、渡来の異国船についてはなるべく穏便に帰帆さ せるよう諸大名に諭し、特に漂流船には薪水を給与することに改めまし た。
 展示資料の「御触書天保集成」は、天明8 年(1788)から天保8 年(1837) までの50 年分の幕府法令を編集したものです。写本、全107 冊。



御触書天保集成 180-0040
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異国船打払令
 幕府に通商を拒否されたレザノフが、ロシアへの帰国途中、文化3年 (1806) 9月から翌年4月にかけて蝦夷地の幕府の拠点を襲撃しました。
 さらに文化5年8月には、長崎ヘイギリス軍艦フェートン号が侵入。 当時イギリスはオランダと戦争状態にあり、オランダ船の拿捕をねらっての侵入でしたが、オランダ船は停泊しておらず、長崎奉行に食糧や薪 を要求した後退去するという、いわゆる「フェートン号事件」が起きま した。また文政7 年(1824) 5 月、イギリスの捕鯨船員が常陸国大津浜 (現在の茨城県北茨城市)に上陸し、 薪水(薪と水)を求めて日本人と接触、同年8 月には薩摩国宝島(鹿児島県鹿児島郡十島村宝島)にも イギリス人が上陸し、牛を掠奪する事件も発生しました。このように、 異国船による襲撃や掠奪事件もたびたび発生するようになりました。
 薪水を与えて異国とことを荒立てない方針の文化3年令を維持していた幕府でしたが、こうした異国の行動を受け、文政8 年2 月、異国船打払令を発布しました。
 この法令では、日本沿海に近づく異国船に対し、一切無差別に砲撃等を加えて、「無二念」に異国船を全て打ち払うことを定めています。
 展示資料は「天保雑記」。天保2 年(1831) から同15 年(1844) まで の諸記録や見聞記を年代順に記載したものです。著者は江戸で剣術の師範をしていた藤川整斎。写本、全56 冊。



天保雑記 150-0150
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一体いきりすニ不限、 南蛮・西洋之義ハ御制禁邪教之国二候之間、以来何れ之浦方においても異国船寄せ候ヲ見受ケ候は、 其所ニ有合候人夫ヲ以不及有無、一円ニ打払



幕末・明治の扱い

漂流民の救助と海上警固
 肥前国中通島の石司(現在の長崎県南松浦郡新上五島町)の海岸に異国人1名が流れ着きました。また4名の遺体と船荷物と思われる品々も同様に漂着しました。
 現地の役人が生存者を救助しますが、言葉も筆談も通じません。しかしどうやらオランダ人であるようでした。現地役人が苦労して聞き出し たことには、7 月21 日、海上で暴風に遭い、15 名の乗組員が次々と流されてしまったとのことでした。現地役人からこの報告を受けた肥前福江藩は、ただちに海上警固のための番船を派遣しました。また乗組員の遺体については、塩詰めにしたようです。福江藩はこれらの事を長崎奉行所へ報告しています。
 差出人の五島飛騨守は、福江藩第11 代藩主の五島盛徳で、彼は安政5 年(1858) 1 月21 日に家督相続し(従五位下・近江守に叙任)、その後飛騨守と改められているため、本資料は安政5 年以降の出来事と考えら れます。
 展示資料は「阿蘭陀人漂着之趣御届申上候書付」。


阿蘭陀人漂着之趣御届申上候書付 多026733
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漂流民の送還
 日本に漂着した漂流民は長崎経由で送還されますが、漂流民が朝鮮人だった場合、長崎へ送られた後、対馬藩が引き取り、送還していました。 また送還の経費は全て対馬藩が負担していました。
 展示資料は元治元年(1864) 5月9日付けの対馬藩主宗義達ソウヨシアキラから老中酒井忠績・水野忠精 ・板倉勝静・ 井上正直 .牧野忠恭、若年寄有馬道純へ出された書状です。その内容は、安政5年(1858)., 同6 年に漂着した朝鮮人が、無事送還された事に対する礼曹(朝鮮国の儀礼や外交を司った行政機関)の役人からの書状が到来したことを伝える披露状です。宗氏はこの披露状に漂流民の口書、 漂流船の積み荷の書付を添えて江戸へ送付しています。


漂着候朝鮮人送届候処従礼槽参議之返翰致到来候ニ付口上書等差上申旨一札 多019816
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日米和親条約
 安政元年(1854) 1 月16 日、横浜応接所において、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーと日本側全権林復斎の間で日米和親条約が締結されました。条約は全12条からなり、第3条にはアメリカ船が日本沿海 で漂着した場合についての記載があります。その内容は、アメリカ船が日本沿海を漂流した場合、これを救助し、乗組員は下田または函館へ護送し、所持品とともに、そこでアメリカ本国の担当者へ引き渡す。漂流民の救助や護送にかかった費用は、救助・送還する側が負担すると定められています。
 展示資料「嘉永雑記」は、主に嘉永年間に出された触書や諸届のほか、 風聞、見聞記、狂歌、落首などが年代順に記載されています。著者は沼 田藩士の藤川藍欝。写本、全10冊。


嘉永雑記 150-0170
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明治政府の漂着船救助
 明治政府は、対外政策については幕府方針を引き継ぎ、幕府が締結した条約を遵守する旨を各国へ通達します。
 明治.3年(1870) 2 月29日、明治政府が出した初めての外国船救助に関する法律が「不開海港場取締心得方規則」にある「難船救助ノ事」14ヶ条でした。
 第6条・第7条では沈没船の船具については、船主の所有権を保障しており、また第8条では難破した外国船の救助費用は、江戸時代と変わらず、基本的には地元の村方負担(一部府藩県も負担)のままでした。これが改正されるのが明治8年5月4日の太政官布告で、救助費用は原則船主負担とされ、不足分は府藩県が負担することとなりました。しかし、あくまでこれは国内法の改正であり、船主への請求権などは、明治27年(1894)の条約改正を待たなければなりませんでした。
 展示資料は 「不開港場規則難船救助心得方条目」、明治3年刊。


不開港場規則難船救助心得方条目 271-0135
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おまけ。前回の「巡海録」に描かれた漂着した清国人。
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