国立公文書館 企画展「漂流ものがたり」(3) 予期せぬ来訪者

公文書館・図書館
03 /01 2017
中国からの使者

中国からの漂着①
宝暦3年(1753) 12月10 日、 八丈島の南岸大賀郷(現在の東京都八丈町大賀郷)に唐船が漂着しました。 この船は宝暦2年11月に浙江省乍浦サホ港から長崎へ向かう途中で暴風に遭い、八丈島へ漂着しました。
 八丈島側は島役人が対応し、船主2名を上陸させました。 言葉が通じないため、筆談で会話し、2名は高山輝、程剣南と名乗り、信牌(長崎への入港許可証)を役人へ提示し、長崎へ向かう途中に漂着した事、荷物には江戸御用の品もあると述べました。
 島役人はまず御用荷物を御用蔵へ納め、その後残りの荷物も荷揚げし、乗組員71名全員を上陸させました。
 漂着者たちへは米や粟、塩、大根、酒など食料を供給し生活を保証しましたが、それらの品々は村々の負担でした。 村の石高により負担を割り当て徴収し、中国人との交渉も禁止しました。
 八丈島は伊豆下田代官の支配下にあったため、海が穏やかになった翌 宝暦4年3月に、代官宛の報告書を送付し指示を仰いだところ、代官は勘定奉行を経て、老中から将軍の意向を伺い、まず下田へ移すようにと の命令を受けます。これにより、下田から迎船が来航し、漂流民と荷物 を分載して下田へ向かいました(漂着船は破損が酷かったため船主の同意を得て解体)。7月1日に代官及び浦賀番所役人による人数や荷物点検が行われ、同月6日に下田を出港し、8月17日に長崎へ到着しました。
 展示資料1点目「巡海録」は当時下田代官所書記役を勤めていた関修齢が記した唐船漂流の見聞録です。
写本、全1冊。「漂着唐船細故」 は、漂着船からの荷揚げや小屋づくりりに動員した人足、漁船、提供した食糧の数量等、漂着船の諸道○○ついて記された書。写本、全1冊。



巡海録 185-0239
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「巡海録」には、漂着船の積荷目録が記載されています。その中でも白糖と氷糖が大量に積載されていたのがうかがえます,「和合丸」「大杉丸」とは、漂着船の積荷や漂流民を長崎へ運ぶための日本船の名称。

漂着唐船細故 185-0246
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「漂着唐船細故」には、唐船が漂着した12月10日から翌年閏2月30日までに漂着船の荷物の引き揚げや搬送にかかった人足や漁船、また漂着民の仮住まいのための小屋作りの作業に動員した人足、牛の数などが 詳細に記されています。また漂流民へ給与した食料についても日ごとに 記載されており、現地の村々の漂着民救助にかかった負担を知ることが できます。



中国からの漂着②
安永9年(1780)4月、安房国朝夷郡朝夷村千倉浦(現在の千葉県南房総市)に唐船1艘が漂着しました。
 5月1日、周辺の村々は海上の取締りをする浦賀番所、南朝夷村に領地を持つ岩槻藩の江戸屋敷幕府代官所等へ連絡する一方、乗組員の救助作業に当たりました。
 岩槻藩は、物頭モノガシラ兼郡コオリ奉行の児玉南何コダマナンカを派遣します。彼は岩槻藩士で、
多くの著作を持つ儒学者でした。5 月9 日に現地に到着した児玉は、漂着船の船主沈敬憺と会見し事情聴取しました。船主が言うには、この船 は昨年11月11 日に乍浦を出航したが、20 日頃に強風に遭い舵などを失 った。海上を160 日ばかり漂流し、船に積んでいた水や食糧は底を尽き、 一人の乗組員が亡くなり、上陸したのは78 名とのことでした。彼は信牌を所持していたため、正規の貿易船であることが証明され、長崎へ送 られることになりました。
 上陸した唐人たちの仮住まいを建てるための人足や食糧は周辺村落 21ケ村がそれぞれ負担しました。その際、人足は21ケ村で平均に負担 し、それに必要な竹木や縄等は村の石高に応じて負担することを決めま した。
 5 月18 日に幕府代官稲垣藤左衛門が到着、児玉がこれまでの状況を報告し、その後稲垣が船主と面会、長崎へ送り届ける旨を通達し、6 月30 日、漂流民は4船に分乗して長崎へ向かいました。



続淡海 150-0094
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「続淡海」は延宝8年(1680)、から天明2年(1782)までの、幕府や諸大名の政治・経済、社会の出来事などを編年で収録した書。写本、全31冊。展示箇所は元順丸が積載していた荷物目録。白砂糖と氷砂糖を合計すると、なんと275,000斤(165トン)にも達します。

游房筆語 185-0201
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「游房筆語」は儒者の伊東藍田(亀年)が記した漂着船処理や漂流民 との出会いを記した体験記。伊東は千倉浦に漂着船があることを知ると、 江戸永代橋から舟を雇い、すぐに現地に向かいます。代官稲垣の部下の手引きで、変装して漂流民の仮住まい小屋へ近づき、沈敬憺(資料では 「天協」) らとの筆談に成功します。翌日も小屋へ近づき筆談を試みま すが、稲垣の別の部下に見つかり、あえなく江戸へ帰還させられること に。 まさに野次馬が記した体験談といえるでしょう。写本、全1 冊。



欧米船漂着①
 文政元年(1818) 5月14 日、浦賀番所に江戸へ向かう船が30艘ほど入船しました。船頭の平坂栄三郎から海鹿嶋(現在の千葉県銚子市海鹿島町付近の沖合か)近くで怪しい船を見かけたとの報告がありました。
 浦賀番所はすぐさま船を出し、間屋(干鰯問屋か)もその後確認に行ったところ、久里浜沖に異国船が碇泊していました。異国船へ乗り、ど この国の者かを尋ねても言葉は通じず、身振り手振りで水や食糧の不足かと尋ねても、そうでもない様子。困っていたところ、異国船の船頭ら しき者が地球図(世界地図)を指さして、イギリスと言いました。この船はイギリス船だったのです。
 船内には飛道具(大筒)や刀・剣などを多く搭載していました。これをみた浦賀役人はすぐさま江戸へ連絡。当時浦賀警衛を担っていた会津藩へも飛脚を飛ばし、会津藩兵船、浦賀役所番船などで周囲を包囲しま す。幸いにもイギリス船は抵抗もせず、こちらの指示に従いました。
 通訳のため天文方も派遣され、イギリス人と話したところ、ロシアと の交易に行く途中に日本に寄ったとのことです。イギリスとの交易はで きない旨を伝えると、了解したようで、すぐに出航しました。
 この船は「フルテレス」号(ブラザーズ号)という名前で、イギリス 海軍将校ゴルドン率いる商船だったようです。
 展示資料「視聴草ミキキグサ」にはイギリス人と浦賀番所役人のやり取りの記録 や、イギリス船図、会津藩の兵船等がイギリ ス船を包囲している図など が描かれています。「視聴草」は幕臣宮崎成身が自身の手もとにある資料や記録を自他の著述とともに編纂した雑録。全176冊。


視聴草 217-0034
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欧米船漂着②
 文久2年(1862) 10 月2 日、常陸国鹿嶋郡東下村高野浦(現在の茨城県神栖市)に「北亜墨利加船」が一艘碇泊しているのが見つかりました。 この時、船はすでに破損している状態だったようです。
 波が穏やかになったため、乗組員を上陸させ、東下村にある新善光寺 へ連行します。その後、到着した外国奉行配下の役人等は、新善光寺境 内に竹で囲いを設置し、漂流民及び漂着船の周囲の警固を固めました。
 資料には、漂流船は「新約基」(ニューョーク)を出航し、ボストン やワシントン、メキシコなどに立ち寄り商売をしてきた商船・運送船のようだと記されています。
 展示資料は「松下大学知行所常州東下村沖合北亜墨利加船漂着之儀ニ付申上候書付」。関東取締臨時出役籠宮幸助から、勘定奉行酒井但馬守忠行に宛てて書かれたものと考えられます。


松下大学知行所常州東下村沖合北亜墨利加船漂着之儀ニ付申上候書付 多016278
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うつろ舟の女
 元禄11年(1698) 5月、三河国渥美郡吉田浦(現在の愛知県豊橋市)に1艘の「ウツホ舟」が着岸しました。舳先ヘサキに男の首をさらしていたといいます。舟の中には女が一人。詮議しようにも言葉が通じないため、長崎へ送還したようです。
 展示資料「改正甘露草(叢)」は延宝9 年(1681) 正月から元禄16 年 (1703) 12月までの諸記録で、その内容は、五代将軍綱吉の動静、幕府 の諸行事、幕政、幕臣や諸大名に関する記事や市井の事件など多岐にわ たっています。編著者等は不明です。写本、全18 冊。


改正甘露草 150-0121
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去ル頃三州吉田浦ヘウツホ舟一艘着岸スヘサキニ男ノ首獄門ニ掛置、舟ノ内改見候ヘハ、女一人乗 居、尤飯米等有之、御僉義難有之、不相通ニ依テ、長崎へ送遣サル、

うつろ舟の「蛮女」
 享和3年(1803) 2月22 日、常陸国「はらやどり」という浜に、1艘の舟が漂着しました。その舟は香盒コウゴウ(香合、香を入れる蓋つきの容器) のような形で、長さが3間(約5.5メートル)あり、上はガラス障子で、 底は鉄板がはめられていたといいます。中には水と食糧、そして一人の 女性が乗っており、二尺四方(60センチ四方)の箱を持っていました。
 地元の古老の話では、これは蛮国の王の娘で、嫁ぎ先で密通の罪を犯 し、流されたものだろう。昔も同様の漂着があり、箱の中はおそらくは 密通した男の首だろうとのことでした。
 幕府や領主へこの事を申し上げれば、長崎への輪送など諸費用がとてもかかるため、再び女を舟に乗せて沖へ引き出したとあります。舟に書かれた記号は、浦賀に来航したイギリス船にも書かれていたようで、こ の作者は蛮女はイギリスかオランダ、アメリカ等の王の娘ではないかと 記しています。
 この「はらやどり」という浜は、現在の茨城県神栖市波崎舎利浜では ないかと言われています。
  展示資料「弘賢随筆」は、幕臣で能書家、故実家、蔵書家の屋代弘賢の手もとにあった雑稿を取りまとめて、編綴したものです。全60 冊。


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故老の云、こは蛮国の王の女の他へ嫁したるが、密夫ありて その事あらはれ、その密夫ハ刑セられしを、さすがに王のむすめなれは、 殺すに忍ずして、虚舟に乗せて流しつつ、生死を天に任セしものか、 しからはその箱の中なるは、密夫の首にやあらずらん、
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