国立公文書館 企画展「漂流ものがたり」(2) 武士の漂流/若宮丸の世界一周

公文書館・図書館
02 /22 2017

武士の漂流
 漂流するのは町人や商人、漁民だけではありません。文化12年(1815) 8月、薩摩藩士の古渡七郎左衛門(右衛門とも)ら3名とその家臣12名は、奄美大島での在番役交代のため帰航の途中、西風に煽られ、宝島 (現在の鹿児島県鹿児島郡十島村宝島)沖付近で漂流しました。
彷徨うことおよそ2ケ月、10月6 日に清国の広東省褐石鎮(現在の広東省油尾市陸豊市碍石鎮か)に漂着します。その後乍浦(現在の漸江省平湖市にある港町)へ送られ、 翌文化13年6 月に清国船に分乗して長崎へ送還されました。この間、水主と船頭4 名が亡くなりました。
 ところで本船には、奄美大島で雇った水主として琉球人8 名も乗船していました。漂着する直前、古渡らは彼らの月代を剃らせて、日本人の格好をさせ、名前を日本人名に変えさせています。
 幕府は清国に対し、琉球国に薩摩藩の支配権が及んでいる事を隠すた め、琉球人を日本人に変装させるといった措置をとったと考えられます。
 展示資料1点目「文化薩人漂流記」は作者不詳、写本で全1 冊。2 点目の「街談文々集要j は江戸時代の考証家である石塚豊芥子著。写本、 全18冊。



文化薩人漂流記 185-0199
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古渡らの船は強風に煽られはじめたため、荷物を捨てるなどし安定を保とうとしますが、収まりません。そこで彼らは髪を切り讃岐金毘羅や伊勢大神宮へ船の安全を祈願しています。またいつごろ近くの「地方」 (島)等へ到着するか
を神䦰ミクジで占っている様子もうかがえます。


街談文々集要 211-0104
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漂流からおよそ2週間、近くに中国とおぼしき大陸が見えてきました。 古渡らは「琉球人、薩州江通路の義ハ唐国江対シ差合之由、兼て承り候ニ付」とし、乗船していた琉球人の服装等を日本風に替え、実孝を孝助、 伊久貞を矢太郎と名前を付けています。



ジョン万次郎漂流記
天保12年(1841) 正月、万次郎は、土佐国高岡郡宇佐浦 (現在の高知県土佐市宇佐町) の漁民筆之承の船に雇われ、近海の漁に出たところ、 暴風に遭い、太平洋上を漂流します。万次郎はこの時15歳でした。
 同月13日、万次郎ら5名は無人島に漂着します。この島はかつて同 じ土佐国の長平や遠江国の甚八らが漂着した鳥島でした。万次郎らもこの鳥島でおよそ5ヶ月にわたる過酷な無人島主活を送ることになります。
 5月9日、偶然にもウミガメの卵採取のため烏島を訪れたアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助されました。同船に救助された事、 また同船のホイットフィールド船長との出会いが万次郎の人生を大き く変えることになりました。
  11月、ホーランド号はホノルル港に入港しました。ここで万次郎を除 く4人は船長の知人に身柄を託され、万次郎はそのまま乗船し、アメリ カ上陸を決意します。万次郎は船名から「ジョン・マン」と改名し、航海を続け、天保14年、アメリカ東海岸マサチューセッツ州・フェアヘーブンに寄港しました。ここはホイットフィールド船長の故郷であり、 万次郎は3 年余りにわたり、航海術・測量学・造船・英語・数学等の教 育を受けました。
 嘉永3年(1850)、アメリカ船サラボイド号に便乗し、同1年に琉球 に上陸。その後長崎で尋間を受けた後、同5年6 月に土佐藩に引き渡さ れ、実に12年ぶりに故郷へ帰還しました。その後、彼は幕府から旗本に取り立てられ、故郷の中浜を姓として授かり、通訳や造船など多岐にわたる活躍を見せます。日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸カンリンマルにも乗船しました。



中浜万次郎漂海記 185-0205
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(矢印) 船ハ乾の方へ乗廻る、沖間四・五里も隔りけれハ、声も届かす、力を落し泣泣神仏を祈なから見送る内、 彼船より小船弐艘おろし、此かたを目かけ漕来る、
鳥島で5 ケ月ほど過ごした万次郎らは、異国船を見かけます。しかし 20キロほど離れているため、声を出すも届かず、泣く泣く神仏に祈りながら見送りました。ところがその異国船から小船が降ろされ、こちらに 近づいてきました。この異国船こそジョン・ホーランド号でした。

漂客談奇 185-0202
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万次郎はアメリカに残ることを決め、捕鯨船員として太平洋を航海し ます。この航海中にホーランド号のホイットフィールド船長より「ヂョ ン」(ジョン)という愛称で呼ばれました。



彦蔵のアメリカ漂流
嘉永3 年(1850)10 月、摂津国菟原ウバラ郡大石村(現在の兵庫県神戸市灘区大石)の栄力丸が江戸からの帰航中、志摩国大王崎(三重県大王崎)で暴風雨に遭い漂流します。乗組員17 名の中に当時13歳の彦蔵が居ました。
 幸いにも飯米を積んでいたので、かろうじて飢え死には免れましたが、 2ケ月近く太平洋を漂流します。そこで幸運にもアメリカ船オークランド号と出会い、救助されます。翌年サンフランシスコに到着。
 滞在およそ1 年、嘉永5 年3 月に軍艦セントメリー号に乗船し、 帰国の途につき、ハワイ経由で5 月に香港に到着。そこでペリー艦隊に乗り換え、日本に帰国する予定でした。ところがぺリー艦隊が来訪する時期は不明だったため、同じ乗組員の治作、亀蔵とともにサンフランシスコへ戻りました。
 サンフランシスコに戻った彦蔵は、セントメリー号で世話をしてくれ たトマス・トロイ伍長の紹介で税関長サンダースの世話を受けることになりました。彦蔵はメリーランド州ボルチモアでミッシ ョンスクールに 入学、さらにカトリックの洗礼を受け、「ジョセフ」の名を授かります。
 嘉永6 年8 月、彦蔵はサンダースに伴われて、当時のアメリカ大統領フランクリン・ピアースと面会します。日本人でアメリカ大統領と面会したのはおそらくは彼が初めてでしょう。
 彦蔵はアメリカで多くを学び、また見聞し、安政6年(1859) 神奈川 のアメリカ領事館付通訳としておよそ9年ぶりに日本へ帰国します。その後、幕末の日米間の外交交渉に活躍しました。
 展示資料「彦蔵漂流記」は元治元年(1864)に刊行され、彦蔵の漂流からアメリカでの生活やアメリカの風俗等を記しています。全1冊。



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 彦蔵は第14代アメリカ大統領フランクリン・ビアーズ(「ビヨス」)と対面します。大統領は彦蔵らを出迎え、彦蔵に政府の学校に入るよう勧めますが、同行したサンダースは、自分が学費を出して学ぱせると述べ、これを断っています。彦蔵は後に第15代大統領ジェームズ・プキャナンとも面会しています。



津太夫らの世界一周①
寛政5年(1793) 11月、陸奥国宮城郡寒風沢浜(現在の宮城県塩竃市)の水主である津太夫ら16名は、米沢屋平之丞の持船・若宮丸に乗り込み、仙台藩の藩米と御用木を積んで、石巻港から江戸へ向かいました。
その途中、暴風雨に遭い、北北東へ流されていき、そのまま漂流してしまいます。船体の破損部分は縄でしばりつけ、裂け目には帆布を詰めこんで浸水を防ぎ、貯水槽が壊れたため、雨水をためて飲水としていたといいます。
 漂流からおよそ半年、ようやく島を発見し上陸しました。後にそこがアリューシャン列島だったことがわかります。彼らはそこで現地民に会い、ロシアの役人とともに、寛政7 年にカムチャッカ経由でオホーツク 港へ向かいました。ここで役人の取り調べを受けた後、再び出立し、イルクーツクへ送られました。寛政8年のことです。彼らはこのイルクーツクで8年間生活することになりました。この間、16名のうち3名が病 死しています。
 イルクーツクで彼らの通訳にあたったのは、なんと日本人でした。その名を新蔵と言いました。彼は大黒屋光太夫とと もにロシアへ漂流し、 日本へ帰国せず、ロシアで生活をしていたのです。新蔵は津太夫らと役所の間に立ち、仕事を斡旋するなど力を尽くしてくれました。
 展示資料「環海異聞」は津太夫ら帰国者の見聞を、蘭学者の大槻茂質(玄沢・磐水)がまとめた書。写本、全10 冊。



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 石巻を出ておよそ半年、彼らはようやくアリユーシャン列島の島に漂着しました。島民は魚や水などを持参してくれ、さらには寝床の用意も してくれました。ただ津太夫らは異国人への恐怖や気味悪さから、その日は寝ずに過ごす決意をするものの、数ケ月の漂流で「至極疲候て、不覚」にもすぐに寝てしまったようです。

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イルクーツクで津太夫らの通訳を担当した人物は、ロシア人より背が低く、眼の色も黒く、容姿も違っていました。津太夫らは思い切って「あなたはどこの方ですか」と尋ねたところ、彼は「私は日本伊勢国の新蔵と言う者で、先年に光太夫という船頭とともに当国へ来て、光太夫らは帰国しましたが、私はそのままここに残った者です」と答えています。 津太夫ら一行の左平は、この光太夫らの漂流の噂を聞いていたようですが、ロシアに残った者が居たことは知らず、「誠に不思議の面会」と 新蔵へ話しています。

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寛政11年2月28日、牝鹿郡小竹浜(現在の宮城県石巻市)の吉郎次がイルクーツクて病死しました。73歳でした。彼はロシア正教の信徒ではないため、津太夫らは「寺」(教会)へは送らず、日本風の石塔を建 て、墓地へ埋葬しました。


津太夫らの世界一周 ②
享和3年(1803)3月、突然津太夫らに役所から呼び出しがありました。首都ペテルブルクから俺者が来て、早急に上京するよう命じられました。首都までの通訳を志願した新蔵とともに、13名は馬車で首都を目指しました。
 連日数百キロを走る馬車の旅に、途中3名が病気となり、イルクーツク等へ戻されました.。残り10名はモスクワで数日間休息を取り、名高い大鐘などを見物したといいます. そして同年4月末、首都ベテルブルクへ到着します。
 首都到着後、一行は商務大臣ルミャーンツェフの屋敷で破格の待遇で もてなされ、5月17日、皇帝アレクサンドル・一世に謁見します。漂流民 らは皇帝から帰国したいかどうかを尋ねられ、津太夫・儀兵衛.・左平・ 太十郎の4 名は帰国を願い出ましたが、残る6 名はロシアに留まりたいと申し出ました。
 7月、レザノフを特命全権使節とする軍艦2艘が、津太夫ら4名を乗せて出発しました。デンマークのコペンハーゲンに寄港、9月下旬にイギりスのファルマスへ。軍艦は南下を続け、カナリア諾島のサンタ・ク ルスに寄港した後、大西洋を横断してプラジルへ向かいました。 11月 26日赤道を通過します。12月21日、ブラジルのサンタ・カタリナ島に 到着。ここで軍艦の修理のため年越しを迎えます。
  享和4年2月4日にサンタ・カタリナを出航、南米沿岸を南下し、太平洋へ。6月7日にハワイへ到着、7月15日カムチャッカ半島へ入港し ます。そして10月9日 (陰暦で9月6日)、長崎に到着。実に11年ぷ りの帰国でした。




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津太夫らは皇帝アレクサンドル一世に謁見した際、皇帝から「爾等、本国へ帰り度か」と言葉を掛けられました。津太夫 ・儀兵衛・左平・太十郎の4 名は「偏ヒトエニ帰国仕度」と帰国を希望し、茂次郎と巳之助の2 名は「御当国に留り申度」とロシアへ留まることを希望しました。

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 帰国を希望した津太夫ら4名は、レザノフとともに長崎へ到着しました。なお、レザノフは漂流民の善六から日本語を習ったと言われています。
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