国立公文書館 企画展「漂流ものがたり」(1) アジアへの漂流/無人島漂着

公文書館・図書館
02 /21 2017
国立公文書館、今度の企画展は「漂流ものがたり」。
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日本は海に四方を囲まれていますが、そうすると、日本人が外国や無人島へ漂流したり、また、どこのだれかわからない外国の方が日本へ漂流してきたリ。そんな体験談や、漂流者を前にどう対応したかなど、資料を通してみていきます。
今回もまた、丁寧な解説パネルと実物を見ながら資料と歴史を味わっていきましょう。

Ⅰ 異国への漂流・漂着

アジアへの漂流

中国漂流①
寛永21 年(1644) 4月、越前国三国浦新保村(現在の福井県坂井市三国町新保)の商人・竹内藤右衛門ら58 名が、3 艘の商船に分乗し、松前 へ交易に赴くため、出船しました。ところが5 月に佐渡付近で暴風雨に 遭い、船は韃靼国(清国)に漂着しました。現在のロシア領ポシェト湾付近であったと言われています。 乗組員のうち、そのほとんどは現地民の襲撃に遭い殺害されます。生 き残った15 名は、捕虜となりますが、その後役人がやって来て、彼らを韃靼の都・盛京(現在の藩陽)に連行します。20 日ばかり滞在の後、 今度は北京へ送られ、1 年ほど滞在した後、帰国願いが認められ、正保 3年(1646) 6月、生き残った15名全員が帰国しました。
 彼らはこの漂流で、ある歴史的出来事を目撃しました。当時中国では、韃靼国が明国を破り、北京への遷都を進めている最中でした。 彼らは図らずも、歴史の目撃者となったのです。
 展示資料2 点は、いずれも上記韃靼国への漂流記録です。 「韃靼漂流記」は「越前船漂流記」「異国物語」とも呼ばれ、正保3年8 月に成立したと言われています。「文鳳堂雑纂」所収。 「越前三国浦竹内藤右衛門等韃靼国漂流言上書上」は「落葉集」所収。



越前三国浦竹内藤右衛門等韃靼国漂流言上書上 217-0029
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「韃靼国之大王」の名は「てうてん」と言い、8歳と記しています。 これは清国第3代皇帝順治帝(じゅんちてい)のことです。「てうてん」と記したのは、 朝廷(中国音で「チャウ・テン」と読む)という言葉を皇帝の名と勘違 いしたからと言われています。当時、清の宮廷では皇帝を名前の代わり に「朝廷」という呼称を使用していました。


韃靼漂流記 217-0036
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漂流民たちが盛京から北京へ連行される際、彼らは大きな城壁を通過 Iします。彼らはそれを「韃靼と大明との境に石垣を築申候、万里有之よ し、高サ十弐三間程」だったと言います。これこそ万里の長城そのものでした。

「韃靼国」(清国)と「北京」(明国)での数字の呼び方
韃靼国にて十の数之事
一アヒ 二チョウ 三エラ 四ドイ 五ステマ 六ニウコ 七ナダ 八チヤゴ 九ウヨ 十チヨエ
北京にて十乃数のこと
一イツコ   二ウンコ   三サンコ   四シイコ   五ウツコ   六リツコ   七チイコ   八ハツコ   九キウコ   十シウコ
一イツ   二チイ   三サン   四シイ   五ゴ   六リク   七シウ   八ハツ   九キウ   十シユウ



中国漂流②
 宝暦7年(1757) 9月、志摩国英虞(あご)郡布施田浦(現在の三重県志摩市布施田)の船頭小平治ら6 名が乗る若市丸は、大坂で白砂糖などの荷物を積み入れた後、志摩国へ帰国の途につきました。志摩国大王崎まで来たとき、大風雨に吹き流され、漂流してしまいます。おおよそ150日の漂流の後、東の方に島があったので、上陸しました。
 水を求めさまよう小平治らは現地民と遭遇、その後村の庄屋らしき家へ連れて行かれます。彼らが乗っていた船は壊されてしまいますが、水や食糧を与えられました。2日ほど滞在した後、彼らは村から村へと護送され、その国の城下町らしき場所に到着しました。
 ここに来て、唐人よりここが「台湾国」で、「国戦屋(国姓爺)」(鄭成功) が攻め取った国であることを教えられました。
 宝暦8年正月に福州に到着、11月下旬に南京に送られ、翌年3 月に清国商船に同乗し、4 月25 日、生き残った3 名が長崎へ帰着しました。 展示資料は「台湾漂流記」。写本、全1 冊。



台湾漂流記 185-0185
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漂流から50 日ほど経過し、周囲にも島らしきものはなく、また雨も 降らず20日間もの間、彼らは水を飲まずに過ごしていました。積荷の白砂糖で喉を潤したり、寒さのためか、船の金具に霜や露が付いたため、それを舐めて(「金具をねふり」) 喉を潤したといいます。

ベトナム漂流①
明和2年(1765) 10月、常陸国多賀郡磯原村(現在の茨城県北茨城市) の姫宮丸(船頭差源太ら6名)は、米を陸揚げした後、帰路についたと ころ、強い西風にあおられ、そのまま東の海上に流されてしまいました。 その後も大波により沖に流され、風にまかせて船を走らせていたところ、 ようやく陸地を発見します。 米を買うために上陸した善右衛門と庄兵衛ですが、80名程の現地民に 囲まれます。言葉を話すも通じず、庄兵衛が砂に「日本国水戸」と書く と、理解した様子で、その後さらに「米」と書くと、なんと米を村から持ってきてくれました。
  翌日、残りの乗組員善四郎と友七も上陸します。彼らは最初足かせを付けられますが、危険がないと判断されたのか、1週間ほどで外されま した。後にこの場所が安南国(ベトナム)であることがわかります。
 年が明け2月になると、「こくわんさん」という日本語ができる人物 が来村し、彼とともに、南にある会安(ホイアン、ベトナム中部クアン ナム省の都市)の港へ向かいます。しばらく滞在していると、日本からの漂流民3 名が送られてきました。彼らは奥州小名浜の住吉丸の 乗組員で、姫宮丸と同時期に遭難し、明和3 年1月25 日に安南に漂着したというのです。
 明和4 年6 月、漂流からおよそ2 年。6 名の乗組員のうち、善右衛門と十三郎は亡くなりましたが、残る4名と住吉丸の3名は、南京船に乗船し、7月に長崎へ到着しました。
展示資料は「安南国漂流記」、写本、全1 冊。



安南国漂流記 185-0168
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 船頭左源太ら漂流民たちは、ベトナムから長崎へ送還された際、長崎奉行所へ呼び出され、そこで「踏絵」を命じられ、その後、漂流から帰国までの事についての尋間を受け、揚屋あがりや(牢屋)へ収容されています。 これは左源太らが特別な訳ではなく、漂流民が長崎奉行所へ送られてきた場合の通常のやりとりでした。特に①キリスト教への入信・勧誘の有無、②船に武具の類を積載していないか、③外国で商売を行わなかったのかの3点が厳しく取り調べられました。


ベトナム漂流②
 寛政6年(1794) 9月、陸奥国名取郡閖上ゆりあげ村(現在の宮城県名取市) の大乗丸(船頭清蔵ら16 名)は、江戸に米を運ぶ途中に遭難、そのまま3 ケ月ほど漂流します。
 閏11月20 日、島を発見し上陸しますが、そこは無人島。ところが翌日、幸運にも漁船と出会い、民家のある島へ連れて行ってもらいます。 その島の役人にサイゴン(現在のホーチミン)へ連れて行かれ、そこに 4 ケ月ほど滞在します。
  寛政7 年4 月、マカオ船に同乗し、広東を経由し、1 月に長崎へ帰着 しました。帰国できたのは16名のうち9名でした。
  展示資料「南漂記」は、漂流から帰国までの経緯だけでなく、各地の地理・風俗・産物などを項目に分けて詳細に記しています。木村兼蔵堂 旧蔵、写本、全1冊。



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 清蔵ら一行は、安南国の城下に案内されます。ここで安南国の「国王」 に謁見し、国王からは5貫文の銭と白米2俵を賜り、さらに不自由があれば、遠慮なく役人へ申し付けるようにとの言葉を受けています。清蔵 らは国王を、他国にもいない大変能力のある方だと感想を述べています。 この国王とは、阮福暎げんふくえい(嘉隆かりゅう帝)のことで、ベトナム阮朝の初代皇帝で す。




無人島「鳥島」への漂着①
享保4 年(1719)11 月、遠江国荒井(新居)(現在の静岡県湖西市)
の廻船(船頭左平次ら 12名)が房州九十九里浜沖で漂流してしまいま
す。翌享保5年正月、無人島に漂着しました。本船は破損してしまい、12 名はわずかの道具を持参して上陸しました。山中の岩穴を居所に定め、 魚や鳥を獲って食糧とし、雨水を貯めて飲料水としました。ここから、 20 年にも及ぶ無人島生活が始まりました。
 彼らが漂着した無人島は伊豆諸島最南端にある「鳥島」でした。鳥島 に漂着した日本人はかなり多かったようです。
 20年という歳月を生き抜いたのは12名の内、甚八・仁三郎・平三郎 の3名でした。その生活は筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。
 元文4年(1739)3月末、鳥島に新たに船が漂着してきました。それ は江戸堀江町の宮本善八船(船頭富蔵ら17 名)でした。この船も岩に打ち上げられて破損していましたが、幸いにも伝馬船(本船に搭載し、 岸との連絡や荷物の積みおろしに使用する小船)を引き揚げておいたの で、甚八ら3 名と17 名の計20名は、4 月27 日にこの島を脱出し、5 月 1日に八丈島へ着くことができました。
 彼らの帰国は、将軍吉宗の耳に入り、元文4年6 月3 日、吹上上覧所 に召し出され、吉宗の上覧の下、見聞した事について尋問を受けました。
 展示資料「遠江国荒居甚八等無人島漂流一件」(「漂流雑記」(写本、 全6 冊)冊次4 所収)は、上記甚八らの漂流について記録した資料です。



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 鳥島漂着後、3年ほどは12名全員が生存していたようですが、それか ら10年の間に次々と亡くなったと甚八は語っています。死因は老衰か食べ物が合わないかだが、体が腫れて亡くなったようです。
 また衣類については、主食としていた「大鳥」の皮と羽毛を転用して いたと述べています。 この「大鳥」とはアホウドリを指します。

 新たに漂着した富蔵らは、甚八や仁三郎らの姿を見て仰天し逃げ出し てしまいます。それもそのはず。20年間、髪も切らず髭も剃っておらず、 常に日に当たっていたことから肌も赤黒く、さらに鳥の皮を着ており、 とても人には見えない風貌でした。


無人島「鳥島」への漂着②
 寛政元年(1789) 12 月、日向国諸県郡志布志浦(現在の鹿児島県志布志市)の住吉丸(船主三右衛門ら6 名)は、備中国玉島(現在の岡山県倉敷市)へ荷物を運び、綿花を積んで帰航途中、日向灘で遭難します。彼らが鳥島へたどり着いたのは、寛政2年正月のことでした。
 驚いたことに、その島では日本人が生活していました。よくよく聞い てみると、彼らもこの島に漂着したとのこと。ひとりは、土佐国赤岡浦 (現在の高知県香南市)の松屋儀七船の乗組員・長平。彼は天明5年(1785) 2月に、乗組員4名で帰航途中に漂着したと言います。島に来る「大鳥」 を食べ飢えを凌いでいたが、彼以外は亡くなってしまったとのこと。長平が漂着したおよそ3 年後、天明8 年2 月に漂着したのが、肥前国金左衛門船の船頭・儀三郎ら11 名。これに三右衛門ら6名が加わり、鳥島の居住者は18名となりました。
 一人また一人と亡くなっていく中、彼らは自分たちで船を造ることを決意します。住吉丸に大工道具が積んであったことが幸運でした。あらゆる材料は海をくまなく探し、足りないものは神仏へ祈願すると、不思議と流れ着いたといいます。
 造船開始から6年後、苦難の末に船を完成させ、ついに出航にこぎつ けます。この間4名が亡くなりました。帆走すること5 日間、ついに島 を見つけ、上陸します。この島は幸いにも八丈島の南方にある青ヶ島で した。時に寛政9 年6 月13 日のことでした。長平は12年、儀三郎らは 9 年、三右衛門らは7 年に及ぶ孤島生活でした。
 展示資料「無人嶋談話」 は、住吉丸の乗組員から審問した薩摩藩藩医 で本草学者の曹槃が著しました。写本、全3冊。



無人嶋談話 185-0224
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 曽繋が書いた鳥島全図。彼は過去の鳥島漂着記録も参考に、「怪鳥」(アホウドリか)や洞穴の場所など詳細に記しています。
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